長樂寺について

 

 

創建450年

 

長い長い歴史の中で受け継がれてきたのは、

ひとえに親鸞聖人の伝えられたお念仏のみ教えです。

時代は変わり、葬儀やお墓の形もずいぶん変わりましたが、

この本質は変わることなく次の時代へと受け継がれてゆくことでしょう。

その為の寺院として、みなさまに広く門戸を開き、

どなたにも身近に感じていただける、お参りできる、そんな場所を目指しております。

 

名称:府中嶋 長樂寺

宗派:真宗大谷派

開基:1571年(元亀2年)

   楽岩寺光安 釋誓安(大谷派御歴代11代顕如上人より法名賜る)

真宗大谷派、長樂寺、中島智幸建築設計、建築家、寺院建築、改修工事、エクステリアデザイン

 

中国・漢の時代の黄石公と張良の彫物

壁面彫刻、黄石公と張良、修繕、真宗大谷派、長樂寺
壁面彫刻、黄石公と張良、修繕、真宗大谷派、長樂寺

 

京都の西本願寺の国宝「唐門(からもん)」にも同様の彫り物が施されています。

 

「彫物の左の方には、橋の上に、馬に跨った老人がいる。その右の手には巻き物を持ち、左足は裸足で靴を履いていない。

右の方には、大龍の頭の上に、一人の人物が乗って、右手で靴を差し出している。

この右の人物が漢の張良である。後に張良は漢の高祖を助けて、天下を平らげるという有名な兵法家(参謀、作戦、戦術を策する人)であるが、その兵法の勉強をしている若い時に、大切な軍略、作戦の方法が判らず悩んでいた。

すると或る晩、夢を見た。その夢の中で、白髪の老人が現われ「そなたは、よく兵法の勉強をして感心じゃが、五日経ったら、夜明けに向こうの土橋の上に来なさい。兵法の秘巻を授ける。」と言った。五日経った朝、張良は夢の知らせの通り、向こうの土橋の所へ行ったところ、もう老人が来ていて「人にものを教えて貰おうという弟子が、先生より遅く来るとは何事じゃ。もう五日経ったら、出直して来なさい。」と言われた。

そこで、今度は遅れてはならじと、五日経った早朝、朝霜を踏んで、土橋のところへ出向いた。

あな、うれしや。今日は先生はまだ来られていない。しばらくする中に、白馬に跨った老人が現われた。が、今度は土橋の上から、自分の履いていた靴を川の中へ投げ下ろして、あの靴を取って来いと言う。ムッとしたが、此処は我慢と、ザンブとばかり川の中へ飛び込んで、流されてゆく靴を取ろうとする。そこへ大きな龍が現われて、その靴をくわえて逃げて行く。その靴取られてなるものかと、腰の大刀を抜いて切りつけた。龍は恐れをなして靴を差し出す。その靴を取り返して、龍の頭に乗り「サァ先生取って参りました。」と、差し出している姿が彫刻の図である。

老人はその靴を受け取り「汝は我慢もした。勇気もある。よって、兵法の秘巻を授ける。」とて、大事な秘巻を授けた。

この秘巻を頂き帰り、これを開いて見ると、今までの兵法の疑問の答えがすべて書いてある。その書を読んで、工夫し、天下一の兵法家となり、漢の高祖を助けて天下を平らげた。之が漢の張良である。

老人は、任務を果し、山へ帰って黄色い石となったので、黄石公という。龍はこれまた観音の化身で、天に帰って守護神となったという。

この張良が、朝霜を踏み(精進)我慢し、勇気をもって龍と戦い、兵法の秘巻を授かる物語を彫刻したもの」

 

何事を成就するにも、精進と我慢と勇気の必要なことを教え諭しているのである。